世界で初めてバーチャルヒト全代謝モデルの開発に成功
-コンピュータでヒトの複雑な生命機能をシミュレーション-
九州工業大学大学院情報工学研究院の倉田博之教授が研究代表者を務める研究グループは、ヒトの全身の代謝を遺伝子レベルからシミュレーションすることができるコンピュータモデル「バーチャルヒト全代謝モデル」の開発に世界で初めて成功しました。開発したバーチャルヒト全代謝モデルを活用することで、コンピュータ上で病態が進行するメカニズムを調べたり、治療薬の効果を調べたりすることが可能となります。実際、同研究グループは糖尿病を引き起こすメカニズムを解明するとともに、効果的な治療薬を予測することにも成功しています。今後、コンピュータ上で様々なシミュレーションを行うことで、臨床試験に掛かる膨大なコストの軽減に加え、治療の質向上に寄与することが期待されます。
ポイント
- ヒトの全身の代謝を遺伝子レベルからコンピュータシミュレーションすることができる「バーチャルヒト全代謝モデル」を世界で初めて開発した。
- 開発したバーチャルヒト全代謝モデルを用いて、メタボリックシンドロームから糖尿病への病態進行メカニズムをコンピュータシミュレーションによって解明した。
- 開発したバーチャルヒト全代謝モデルを用いて、多剤併用療法が糖尿病治療に与える効果と副作用を調べ、新規治療薬を提案した。
ヒト全身代謝を臓器、細胞、分子(酵素反応)へ分解し、酵素反応レベルで微分方程式モデルを構築する。バーチャルヒト全代謝モデルを用いて、病態変化、投薬治療の効果をシミュレーションする。解析結果をフィードバックしてコンピュータモデルを持続的に改良する。
医薬品開発や治療法開発に不可欠な臨床試験は、被験者の安全性や結果の信頼性などを確保するために、膨大な時間と費用を要します。従って、ヒトのコンピュータモデルによって臨床試験を代替することは、医学分野最大のブレークスルーの一つです。21世紀に登場したゲノム科学やシステム生物学は、遺伝子ネットワークや生体分子(酵素反応)ネットワークが適応や発達を含む多様な生物機能や疾患を生み出すメカニズムを明らかにしています。情報科学やシステム工学が急速に進歩する中、コンピュータを用いてヒトの複雑な生命機能(全身の代謝メカニズム)を遺伝子や分子のレベルから数理モデル化し、すべての生理学的機能をコンピュータでシミュレーション?予測することが期待されています。
本研究グループは、ヒトの全身の代謝のコンピュータモデルを実現するために、ヒトを構成する生体分子(酵素反応)ネットワーク全体をサブシステムに分解し、それぞれを数理モデル化した後、それらを統合するシステム生物学のモデリング戦略を提案しました。具体的には、ヒトの全身の代謝を血液、膵臓、肝臓、骨格筋、脂肪組織、心臓、胃腸、脳の8つの臓器に分解し、各臓器において解糖系、糖新生、β酸化、グリコーゲン蓄積、トリグリセリド合成を含む物質変換とエネルギー変換システムを数理モデル化した後、臓器モデル間を血液中のグルコース、乳酸、アラニン、脂肪酸、トリグリセリドなどを介して結合する1140の動力学パラメータからなる202の代謝物が時間変化する常微分方程式モデル(=バーチャルヒト全代謝モデル)を開発しました。
なお、代謝システム中の酵素反応のミカエリス定数パラメータは試験管の実験値を使用する一方、遺伝子発現量に依存して変化する反応速度定数パラメータは、遺伝的アルゴリズムを用いてスーパーコンピュータ上で推定しました。断片的な生物の測定データから膨大な数のパラメータ値を推定する必要があるため、困難な課題に見えますが、実際は、定性的実験データに基づく制約条件を与えることによって、パラメータ値を推定することができました。
開発したバーチャルヒト全代謝モデルを用いて、膵臓が放出するインスリンをレギュレータとし、食後と安静時における各臓器の代謝反応速度や血液中の代謝物濃度変化を正確に再現することができました。これは、開発したモデルが、全身の代謝の最も包括的で高い予測精度をもつコンピュータモデルであることを示しており、本研究グループは、脂肪症、膵臓の機能障害、インスリン抵抗性などの個々の障害を組み合わせて、糖尿病を引き起こすメカニズムを明らかにしました。また、開発したモデルは、グリセロールキナーゼ阻害剤が2型糖尿病の効果的な薬であることも予測しました。この阻害剤は肝臓のトリグリセリドを減少させるだけでなく血液中グルコースも減少させており、開発したモデルを用いて、多剤併用療法を合理的に設計することもできました。
20年前は生物学的複雑性や測定データ不足のため、コンピュータモデルの開発は非現実的と言われていましたが、現在、ゲノム科学やシステム生物学の発展によって、ヒト代謝システムの時間変化を予測するコンピュータモデルの開発が可能となりました。今後は代謝反応だけでなく、遺伝子発現調節や信号伝達を組み合わせたゲノムスケールのコンピュータモデルの提案が可能になると考えられます。生命現象は、それが物理化学プロセスであるという基本にたてば、人工システム(自動車、飛行機、コンピュータなど)と同様に数理モデルの対象です。生命は、コンピュータシミュレーションのフロンティアであると言えます。生物学者や医学者と協力しながら、バーチャルヒト全代謝モデルを革新して、糖尿病などのさまざまな代謝疾患メカニズムを解明し、医薬品の効果を予測することによって、情報科学だけでなく生物医学の発展にも貢献することを目指します。
論文の詳細情報
タイトル: Virtual metabolic human dynamic model for pathological analysis and therapy design for diabetes
著者名: Hiroyuki Kurata
雑誌: iScience(Cell Press社)
DOI: 10.1016/j.isci.2021.102101
※ 本研究は JSPS科研費19H04208 の助成を受けたものです。
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